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2013年11月6日水曜日

ん~…この時期になると…

昨日、今日と、お世話になっている美術系学校にて、学生達の卒業制作第一次審査なるものがありました。

毎年、この時期になると考えさせられることは同じようなこと。

絵を描いたり物作りが好きな子たちが集まったこの学校。絵を描くことだけではなく、人間関係に悩んだり、技術で自信をなくしそうになったり、様々な事をものすごいスピードで体験しなければならなくて、それでも絵や物作りが好きだからここまでやってこられた子たち。卒業制作ともなると、今までの決められた課題制作とは違い、最初から最後まで自らが責任をおわなくてはならない。他人の評価は当然気になるだろうし、それだけでも大変なストレスを初めて感じていると思う。

私は技術もメンタルも、かなり不器用な人間だから、とくにうまく出来なかった学生たちの心境や状況、痛みや焦りはよく理解できるつもりでいる。  つもりだけかもしれないけど。

センスが良くてサラッとこなせる子もいる。才能なんだと思う。
でも、現在、一般的な他人には理解して貰いづらい胸の内に秘めた事柄を、目に見える何等かの形に作ることで表出し、やっとの思いで叫んでるというか、そういうタイプが大判なんだと思う。カッコ悪くても、叫ぶことができているならいい方だと思う。
あとの大判は、自分の声で叫ぶ方法が見つからず、何かどこかのだれかの形や言葉を借りて、紗にくるんでしまっているようにも見えた。

自分はどうだろう。
自分もあの子たちくらい若かったときは、何を表現して良いか正直わからないで制作してました。
どこかで見聞きしたことのあるようなもの。そんなつもりじゃなくても絵の中に出てきてしまったりして。何を言いたいのかわからない絵。

イラストやデザインって、純粋絵画や彫刻などと違うのは、やっぱり不特定多数の皆に伝わる普遍性をついたような部分がないと仕事にならないだろうなぁとは思いますが、実際集まってる子の大判は、描いて吐き出す、もしくは自分の描く世界の中に閉じこもって身を守ろうとする…そういう質の子たちのように感じています。商業性とか、表面は考えているように見えて、実際の中身は自己表現。

だれかれにとやかく言われることなく、評価を気にせずに思う存分やりたいことやれる環境がもっとこの子たちに有れば良いのに…って、不器用な表現をしてる私はつい思ってしまうのです。

さ。終わったことは悩まずに、目の前にあることをやるだけです。私も同じ。




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